2015/03/31号 《僕にとっての陸前高田…高田病院の事》
色々と思うところあって、最近はホームページの記事の更新が出来ずにいました。
早や東日本大震災から4年が過ぎました。福島県などを訪れると、震災前よりも活気を失った町、除染中の看板、所々修復されないままになっている福島駅周辺の商店街……。これらを見ると、あの日から始まった震災後は、まだまだ終わりそうにないな、と思うばかりです。
そんなことを考えながら、昔を思い返しました。東日本大震災では多くの町が被災しましたが、そんな中でも、陸前高田は僕にとって最も多くの思い出のある町です。
かつて、僕が東北大学医学部第2内科の医局に所属していたころ、「1週間トランク」いう名の、医師派遣アルバイト(県外の病院への1週間の短期出張)がありました。東北大学の他の医局もそうだったとは思いますが、第2内科に入局すると、1週間ずつの派遣先を決められ、確か、岩手、福島のいくつかの病院勤務を、各々8~10人程度で担当するのです。
僕は高田病院に、割り当てられました。僕が初期研修を終えて母校に戻ったのが昭和63年だったので、高田病院に行っていたのは、昭和から平成にかけての数年間のことです。
当時はまだ週休2日制ではなかったので、土曜日の大学での半ドンの診療を終え、土日と仙台市近郊の病院で当直勤務をして、その後日曜日の夕方に、高田まで車を飛ばして、当直に入りました。
高田病院の4階建ての建物の入り口をくぐると正面に妙にさみしい職員食堂が見えました。初めて行ったその日から、大きな炊飯ジャーを開けて自分で御飯をよそって独り飯です。電子レンジも置いていないので冷えた夕食を広いテーブルで一人で座って食べていると、せつなさを感じたものでした。当時、内科医師は常勤の院長先生、そして、自分より少し年上の医局の3か月トランク(同じく大学から派遣されている3か月の中期出張)で来ている先輩、そして自分の3人でした、あのころはまだ、病院の経営がどうこう、と言われることも少ない時代だったので、先輩に相談しながら、まあ自分なりには一生懸命に患者様の診療にあたったことが記憶に残っています。今思えば、まだ青い生意気な大学派遣医師だったかもしれませんが、院長先生からは一度も苦言をいただいたことはありませんでした。これは、自分が優秀だったわけではなく、上に立つ者の大きな寛容の心だったのかな、とも今になってわかってきました(自分が当時の院長に近い年代になり)。ほかに外科や小児科の常勤の先生がおいでになり、気仙川の鮎解禁日を楽しそうに心待ちにしていた姿が、今も目に浮かびます。
さて、内科の病棟は4階にあり2階の医局から階段を登り病棟へ行きました。病室を回った日々は何となく覚えていますが、それより一番覚えているのは、昼御飯時に、看護室の片隅で、しばしば、年上の看護婦さん達から、「先生もおいで~」と言われ、ポチの様に、はいはい、と仕事を切り上げ同席させていただき、おいしい漬物や甘いお茶菓子を、沢山食べさせていただいたことです。時には自分の好きでもないものをだされ、「俺嫌いなんだけど…。」と思いながらも、飼いならされたポチなので、頑張って食べました。病棟の窓から時々外をみても、町の景観を心をもって見ることもありませんでした。当時まだ、海や景色などに興味のなかった自分は、ろくに高田松原も見にゆかず、週3回の宿直の夜と週3回の非番の夜を過ごしていました。今思えばもったいない事です。もう少しあの街を見ておけば良かったなんて思うけれど、いまさら…です。あの建物に、あの病室のフロアまで、津波が来たなんてとても想像つきません。
こんな風に、何度も高田を訪ねていたら、ある時、千昌夫様のホテル、キャピタルホテル1000が高田にオープンになりました。津波被害の時は、もう経営者が変わっていたとのことでしたが、震災後テレビに津波で流された町に、かつて海沿いにあった豪華リゾートホテルが壊され、土砂に汚れて建て物だけがかろうじて立っている様子が映っていました。僕はもって行き場のない、やりきれない気持ちがこみ上げました。
悲しい話は多分尽きないので、非常識かもしれませんが、僕の悔しい思い出を書かせてください。高田では、宿直する3回の夜は、もちろん当直室で寝ましたが、実は、それ以外の3日間も、やはり、同じ部屋で、宿舎扱いで宿泊していました。この当直室は、結構暗くてじめじめして、まあお世辞にもとても綺麗とは言えません。トランクの夜は、侘しく、切ないものでした。
そんな高田トランクだったのですが、ある時、2週前に高田へ行った先生から、今度は、非番の夜は、当直室ではなくて、近くに出来たキャピタルホテル1000で泊まれることになったよ、と言われました。心の中でガッツポーズ(^^)bです。その日から、今度は!豪華リゾートホテル!かあ!…と心躍り、ホテルの夜を楽しみにして高田へ行きました。到着したその夜は当然宿直なので、薄汚れた当直室へ泊まりました。翌日、月曜日ですが、院長先生やほかの先生に会った時に、今度からホテルに泊まれることになったから、と言われると思い、内心わくわくして待っていましたが、誰も何も言いません。月曜の夕方、職務終了時まで首を長くして「ホテルの知らせ」を待っていました。でも誰もなにも言ってくれないのです。ついに心配になりました。多分、院長先生が、山本はホテル宿泊が初めてではないから、わかっているのだろう、と誤解して何も言ってくれないのではないか等とあれこれ思いをめぐらせ、遂に意を決して聞いてみました。答えは、‘今週はダメなんだ’‘エッ’耳を疑いました。‘ガビ~ン!’キャピタルホテルで大きな催し物があったのか、病院の予算の都合なのか、理由は聞きたかったけど聞けませんでした。「俺だけかい??ついてないなぁ~。」涙なみだでした。その後も、僕がキャピタルホテルに泊まれる事はありませんでした。
今となっては青年医師時代のトランクの笑い話のひとつです。
少しだけうれしかったことを書きます。
震災の際、電話や携帯もつながらず、電気無し、ガス無し、ガソリン無し等の状態が続きました。この時、東京で学生一人暮らしをしている長男とも、なかなか連絡がとれず、会うことも出来ませんでした。1か月位たった時仙台に来れるの?と尋ねると、「実は俺、今高田にいるんだ」と言うではありませんか。「大したことしてないけど、子供たちが結構慕ってくれてるんだ」と。震災直後、数日後から実家のある仙台を通過して、高田へ行ったようです。そうだったのか。ちなみに帰りも実家素通りで東京直帰でした。その後これまで、息子は大学の高田復興プロジェクトの一員として何度も高田を訪れているようです。僕は、息子に高田トランクの話をしたことが無かったので、彼がボランティア先として高田に向かったのは全くの偶然でした。被災した高田の街をテレビ等で見聞きする度に当時の様々な出来事がよみがえり、あの場所だな、一緒に仕事をしていた人たちはどうなったんだろう…と悲しい気持ちが増していたので、何か不思議なつながりを感じました。
震災を機に思った、とりとめもない話です。今は、東北の復興を心から祈りつつ、今の僕が出来る診療に自分なりに心をくだく日々です。
2011/11/27号 ≪伸びの少ない話。想定外と臨機応変。≫
また寒い冬がやってきました。特別の月日が過ぎ、いろんな事を考えさせられました。
心から震災への思いが離れることは一度もありませんが、少しは気分を変えてみた方がいいのかな?なんて思ったりします。そんな訳で、くだらない昔の思い出に触れてみたいと思います。
テレビでは、連続ドラマの南極大陸の放送が続いています。豪華キャストで、素晴らしいドラマで、時間があれば楽しんでみています。そんな時ふと思い出した事がありました。一つは、まだ僕が小学校低学年のころ、南極観測船“富士”が愛知県の港、多分名古屋港?にやってきて、その中を見学させてもらった事、そして、もう一つは僕の結婚式の日にあったことです。
当時まだ人生も何も分からない田舎の少年だった僕にとって、富士は大きな船で子供ながらにこんな船で大きな旅に出られたらいいな、その壮大な姿にみとれました。船内を見て廻っていると、船長か他のクルーか記憶が定かではないのですが、思いがけず子供だった僕の前に現れ、何か質問はありますか?と聞いてくれたのです。せっかく憧れのクルーに話しかけてもらったのに、僕は気の効いた質問が出来ませんでした。大した質問も出来ず、アー、とか、ウーとか言っていた自分に失望し、帰宅した後に、どうしたら南極に行けるのですか?と聞けば良かった、とか、観測隊ではどんな仕事をするのですか、とでも尋ねれば良かったとか、ずっと後悔していました。この思いは常に心の底に残ってきたと思います。今だに、気の利いた事を言った方が良い場面で思う様な事が言えず、結構後悔する事が少なくないのです。今は、そんなことの一つ一つが多分その人の能力なのだろうと思っています。臨機応変の能力が低ければ、今流行りの言葉、想定外、を減らす様に、常日頃から色々な場面や様々な可能性に思いをはせておくことが必要なのではないかと思っています。臨機応変の対応能力を上げるようにする事が大事なんだろうけれど、どうしたら改善できるのか本当に難しい問題です。
結婚式は平成の初めでした。やはり名古屋の某ホテルで行われました。新郎の僕も一応披露宴の御色直しを1回しました。別のフロアにエレベーターで移動してタキシードに着替えるのですが、飛び乗ったエレベーターに、あの柴田恭平様が、独りで乗っていました。一瞬、妙にスラッとしたかっこいい男だなあと、彼の顔を見つめて、ぽかん、としていたら、おめでとうございます、とドラマと同じように声を掛けてくれたのです。テレビで見る南極観測隊隊長のような誠実な目をして優しくかっこよくです。他人からみれば、何だ、大した事ないじゃないか、と思うかもしれません。しかし失礼ながら、列席いただいた大学病院の先生方の御言葉以上に、自分には嬉しく感激の言葉でした。この事は、あまり話さないできたのですが、あの時以来、柴田恭平様の隠れファンだったのです。門出の日の良い思い出になりました。この時はようやく、ありがとうございます、と一言返したのですが、富士での航海、いや後悔から20年の歳月を経ても、不意の事態への反応能力ののびしろはかなり少ないものでした。テレビ見てますとか、嫁さんがファンなんですとか、もう少し気の利いた話でもして握手してもらえば良かった等とまた後悔でした。
今では、その時からまた20年以上がたち、自分の伸びを考えてみると、最近では伸びというより縮みです。先日、久しぶりに野球をしたら、筋肉がつって、伸ばすのも大変でした。両手でペケ印作って交替です。帰りの車で、アクセルやブレーキ踏むときに、足がつらないように、と祈るばかりでした。涙、なみだ、です。
まあそんな風に過ごしてなぜか仙台に来て32年、この街が好きです。この冬を越えれば震災から1年です。震災で失われた人や物に対する悲しみの気持ちが消えることはありません。鎮魂の思いと復興を祈る気持ちでいっぱいです。やはり、震災に心が戻ってしまいますが、今は感謝の気持ちを持って、自分に出来る事をやっていくのみです。
2010/01/04号 ≪寒い朝の妄想≫
氷点下は休日、冬の夢、近況報告。
20××年、1月4日。正月明けの最初の出勤日、のはずの日。僕は眼を覚ますと、急ぎ、室内温度計を見る。7℃、寒い。次に窓の外から引き込んだ正確無比の室外計に目をやる。氷点下マイナス0.5℃。これまでなら、本当に周囲が氷点下かどうかTVチェックが必要なところである。しかし、今は強い味方がある、今年の初売りで18時間並んで2万円(デフレ前の2009年の価値では約18万円か?)で買った新型室外温度計、それはなんとも正確との評判の品。「マイナスだ~」僕は安心して再度の眠りについた。
思えば、メチャメチャ寒がりの人の集団、「鳥肌党」が政権をとった。
そして一昨年の御用納めの日に、鳥山首相が発した、氷点下は休日宣言。なんと甘い響きだったことだろう。
気温が氷点下の日は仕事をしなくて良いと公言された。
それ以来、人々は北へ移動した。わずか1年で日本地図は変わった。
今や札幌の人口は1000万人を越え、旭川など、かつての大阪をしのぐ500万都市。僕の住む仙台ではまだかろうじて50万人の人口を保っているものの、かつて大都市と呼ばれた南のまち、東京、福岡、名古屋、大阪、横浜など全て過疎地帯となり、当時の繁栄は既に歴史上のこととなった。
・・・・・・(?)。
ナンテ事を、寒い正月に布団で考えていました。しかし、年をとると寒さが身に沁みていかん。この文明の時代になぜ、我が家は朝にこんなに寒いのか?多分、換気大好き、暖房嫌いな暑がり妻が、我が家の政権を握っているからだ。そう信じて疑わないこの頃です。まあ、寒さで血圧が上がりすぎぬように、注意しましょう、特に高血圧の人はね。
このお話はあくまでもフィクションであり、100%空想の物語で、実在の人物、団体、出来事とは、一切関係ありません。現実世界のいかなる人、もの、事とも無関係です、あしからずお願い致します。
(付)妻(“u”)の一言:愛知県出身なんで仙台の寒さは本当は苦手。人一倍寒がりで暖房も大好きなんですが…。朝はあえて窓を全開にしてフレッシュな冷気を入れ、部屋の空気の入れ替えも度々…。夏は暑く、冬は寒いという自然を受け入れ自分を甘やかさないように…。心も体も鍛練、鍛練…。
2009/01/07号 ≪食の安全について≫ --- 栗と烏賊(いか) ---
昨今の輸入品での各種薬物混入問題を耳にするごとに少し寂しい気持ちになります。それが、如何に大問題で、どのように解決したらよいか、という問題は専門の方にお任せすることにして、日常に関係する個人的な意見を書いてみます。
僕は昔から、天津甘栗がかなり好きです。だから天津甘栗を売っているのを見かければ、必ず手に入れて食べていました。栗の香ばしいあの香りと食感、なんとも言えず素敵なものです。小学生のころ、僕の地元では小学校の裏から少し奥へ入って行くと、標高数百mの高山という山がありました。秋になると、この裏山へ友達と登っては、栗を拾いました。夜暗くなるまで帰らず、親を心配させたものです。集めた栗はどれも小粒で皮をむくのが大変でしたが、これを御飯に混ぜて炊いた時のあの香りは最高で、至福のものでした。栗の思い出はそこから始まるのですが、最近僕の大好きな天津甘栗が品薄なのです。新聞に中国産の餃子の話が出るたびに、甘栗はどうかな?と栗の記事を探すのですが、話題にも上りません。おそらく世間での必要性が低いためなのでしょう。でも、無いと思うと余計に食べたくなります。昨年、静岡で買った甘栗は、違うんですよね、期待の味と。そのあと両国でも買ったのですが、やはりちょっと違うんですね。多分天津甘栗は中国産でしょうが、今回の産地偽装問題で、中国からの輸入が難しくなって、この場合はまさか逆産地偽装で、日本産の甘栗を天津産と偽っているわけではないのでしょうが。
最近、もう一つ足りなくなった様に感じているものは、剣先スルメです。だいたい僕はビールや焼酎を飲みながら、烏賊をかじるのが大好きなのです。店先ではサキイカは一杯並んでいるのですが、剣先スルメは少ないですよね。品薄みたいです。剣先スルメの主たる原産国がどこかは知らないのですが勝手に今回の薬物など混入問題で減ったものと理解していました。まあ、剣先スルメは少し注意して2~3軒スーパーをまわればみつかるので、対して大きな問題ではないのですが。
さて、余談なのですが、なぜ、昔雀荘で食べたスルメ(あたりめ)はあんなに美味しかったのに、家で自分で焼いたスルメはそんなに美味しくないのでしょう?ウ~ン、これはずっと続いている僕の悩みです。誰か教えていただけないでしょうか。烏賊が悪いのか、焼き方が悪いのか、炭火でないからいけないのか?こんなことを考えていても眠れぬ夜にはならず、グ~グ~寝ているこの頃です。
甘栗も烏賊も匂いで毒物混入がないか確かめようと鼻に近づけてみましたが、どちらも元々の匂いが強くてよく分かりません。特に栗は間近に匂いを嗅ぐといいものではありません。基本的に好きなので、処分することも無く、原産国の如何にかかわらず、すっかり食べてしまいました。
早く毒物混入の事件が解決すれば良いなとは思います。賢明な方は、自分の目の前に好物があったとき、(安全ではないかもしれないという情報が少しでもあれば、)勇気を振り絞って食べるのを止められるのでしょうか?なさけないかな、僕には自身がありません。(・_・;)・・・
2006/12/13号 ≪イジメ考≫
・・・・・僕が中学校時代にあったイジメ・・・・・・
この頃は新聞でもテレビでも毎日イジメのニュースや記事が眼に入らない日はありません。それだけ多くの子供たちが悩んでいるんだと思います。主に級友にいじめられた話が出てくるのですが、時には変な教師の話も見られ、今もこんな教師がいるんだ、となんとなく納得します。
最近は教師の質の低下、などと言われていますが(マスコミが勝手に言っているだけでしょうが)、私はその考えには反対です。もし、そうだとすれば、社会全体のレベルが下がったとしか思えないからです。なぜならば、この社会の中で教師を志す人のレベルが相対的に下がったとはとても思えないからです。決してそんなことはなく、多分今の先生方のほうが昔よりずっと立派ではないかと信じています。なぜなら僕自身は、かつての中学校教師にひどいトラウマを与えられたと思っているからです。
30年前僕は愛知県豊橋市の一番東のド田舎のF中学校で過ごしていました。最近のいじめニュースの中で、思い出すのは、あの頃担任教師に一方的に攻撃され、憎しみを持って耐え、心の中でしか戦えなかった苦悩の日々です。あの時、もし、もう1年、三年生であの二年生の時の担任教師に当たっていたら、僕自身持たなかったかもしれません。そんな苦痛の日々が思い出されて来ます。今にして思えば豊橋市内でも最も田舎のあんな中学校には、きっと左遷された気持ちで、彼ら、どうしようもない教師達は赴任してきていたのでしょう。
そんなわけで勝手ながら今日は僕自身のイジメ体験について書いてみたいと思います。もともと僕はそんなに品行方正ではありませんでした。たぶん生意気だったのでしょう。ですから、中学生の時にはしばしば教師とぶつかりました。僕が中学生だった頃はまだ校内暴力、学校崩壊へと進む前の時代でした。したがって馬鹿な教師はやりたい放題。僕たちのF中学校では、毎日何人かのどうしようもない教師による生徒へのイジメが横行していました。何もしていなくても何かとケチをつけ、パイプ椅子でくびを小突かれ、スリッパで殴られるのは日常茶飯事。クラスで何か問題が起これば適当な奴をつかまえお前の責任だといわれ往復ビンタです。毎日教室へ行きたくなくて行きたくなくて仕方ありませんでした。悔しくて悔しくて隠れて涙を流す毎日・・・。
中学二年生が終わる頃には“あと何日あいつのクラスに行けば他の担任に変われるか?”“もしまたあいつのクラスになったらもう生きていけない”等と思っていました(幸い三年生では違う担任に当たりました)。さらに普通は試験が出来れば、頑張ってほめるのが教師なのでしょうが、F中学校では違いました。試験の成績がよければ“お前は勉強ばかりしている”と級友の前で嫌味三昧。それならと適当に試験を受ければ今度は“天狗になっている”と罵倒。嫌味と暴言、暴力の毎日でした。本当につらかったです。
でもあの時は不思議に自殺しようとも逆に彼らを刺そうとも思いませんでした。とにかく耐えるだけが道と信じ込んでいましたから。僕を支えたのは人としてのプライドと、彼らを見下す気持ちだけだったと思います。そして僕には仲間がいましたし両親もいました。本当を言えば、あの教師が事故にでもあって明日死んでしまえばどんなにいいだろうと、何度も思いました。僕はまだこれでも気が強かったほうなので何とか耐えることができましたが、級友の中には、その教師の愛車である中古のカローラを見るだけで手足が震えて何も出来なくなる子もいました。
彼らが教えてくれたのは人を憎むことでした。今思い返しても、あの中学校には良い思い出はまったくありません。収容所でした。きっと今の時代であったなら、我慢できず、彼らをアヤメテ、刺してしまったかもしれません。彼らも今生きていれば多分60歳台だと思います。きっと憎まれっこ世にはばかってまだ生きていると思いますが、あんなことがなぜ出来たのか、会えば、聞かざるを得ません。でも、もし再会すれば、きっと僕は彼らを攻撃してしまうでしょう。だから彼らには二度と会うべきではないと思っています。幸いその後の人生で、あの時以上に人を憎んだことはありません。でも、僕の心の中で中学生時代のつらい記憶だけは、決して消えることのない傷なのです。
結局、今イジメに悩んでいる若い人達に言いたいのは、もしぶちきれて反撃して、大きく相手を傷つけてしまったら負けです。自殺したらゼッタイ損だと思います。クズのような人間に自分を損なわせないでクダサイ。だから耐えて、生きてください。きっと良い時はやってくるし、良い人はいます。そして必ずあなたを理解してくれる人が現れるのではないでしょうか。僕は、彼らを見下すように、こんな中学校は早く卒業して高校へ行くんだ、と思うように努力していました。あなたも自分の心を支える何かを見つけて生きぬくのです。あんな二言目には“内申書に書くぞ”としか言えず、虫の居所が悪ければ人を殴るという、男のヒステリー(昔オステリーといわれた時がありました)の様な輩も自分を育てる肥料か何かだと思って踏み台にしてください。
これからの人生つらいことは多分数多くあります。僕も悩みや苦しいことは沢山ありました。でも生きてこそ自分ありです。きっと10、20つらいことがあっても一つ楽しいことがあれば人は生きてゆけるのでは無いでしょうか。
世の中には生きたくても生きられない人が多くいます。医療の力では助けられない病気の人が沢山います。もし自殺しようと思ったら、自殺を考える前にそんな患者様達がいることを思い出してください。人の痛みがわかるあなたは、そんな人達の力になってあげてください。あなたを必要としている人が必ずいます。
本当は人を憎んではいけないのだと思います。でも、僕は人を憎まない人にはなれずこんなことを書いてしまいゴメンナサイ。