2013/11/04号
≪東北楽天ゴールデンイーグルス日本一感動をありがとう≫
嬉 涙……… …… … ・
2013/10/01号 ≪楽天リーグ優勝d(^^)b≫
祝!!東北楽天イーグルス パ・リーグ初制覇!!
9月26日(木)の埼玉西武ライオンズ戦は、テレビで観戦。最後は田中まあくんの魂のこもった投球を信じつつもドキドキしながら祈るようにみてました。優勝が決まった瞬間は熱いものがこみあげて・・・・涙・・・涙・・涙・
リーグ優勝にとどまらず、次は初の日本一という野望に向かって貪欲に戦って欲しいです。応援してます。
2011/01/24号 ≪1980年の冬の思い出≫
新しい年2011年が始まりました。また、少し50歳が近づき少し悲しく思いますが、ここまで、そこそこ元気に生きられたことに感謝すべきかな、と、思い直しています。
この正月に久しぶりに故郷へ帰りました。今から31年前に、早く遠くへ離れたい、ここから出てゆきたい、と思ったあの故郷です。その土地は今も同じ佇まいでした。仙台よりも少し暖かいはずなのに、北風は冷たく、駅の出口に立つと、よそよそしい空気に包まれる様でした。他人の家は冷たく感じる、と言いますが、僕の気持がそうさせるのだろう、とは思います。犬好きの人が声をかければ、犬は寄ってくるのですが、犬を怖がる人や拒む人には、犬は決して尻尾を振りません。そんな土地との関係でしょうか。
そんな中でもよみがえる思い出がありました。もっとも最近の、そして最後の大切な思い出、記憶は受験勉強です。少し触れてみたいと思います。
中学のころから、僕は朝に勉強していました。ですから、床につくのは、皆が起きている夕方です。最初はそれでも夜8時ごろまでは起きていたと思います。しかし、高校生になるとさらにエスカレートして、高校から帰るや否や、ベッドへまっしぐらです。夕方に寝て、深夜に起きだし、起きた時間から冷えた夕食を独りで食べ、風呂へ入って勉強です。2階に勉強部屋があったのですが、階下から、母の叫ぶ声、「食事してから寝なさいよ」を何となく聞きながら眠ってしまうのです。
元気な日は、深夜の1時に起きます、でも、元気が無い日は朝4時です。起きた時、勉強する時間が無いと、焦ります。起きて階下へ行くと、母の作ってくれた夕食が網戸の様な棚の中に残っています(蝿帳;ハイチョウと言うらしい)。電子レンジもまだ走りの頃?(かなりの一般家庭には普及)で、山本家には勿論ありませんでした。チンする術もなく、冷たい夕食を深夜に一人で食べるのです。それでも、食事は美味しかったです。母には迷惑かけ申し訳なかったと思っています。
でも、食事にもまして思い出に残る一番大変なことは風呂です。当時の実家は、薪で炊く風呂でした。普通の家では薪では無く、ガスで炊く時代だったのに、僕の父親は新しいものを全然買ってくれませんでした。
思い返せば幼稚園の時に、自分の好きなマンガキャラクターの絵を描く、という時間がありました。この時、「モーレツあ太郎」のニャロメを描きました。問題は次の瞬間です。じゃあ、クレヨンで色を塗りましょう、との先生の声がありました。困りました。我が家には「白黒テレビ」しかなかったので、ニャロメは灰色のネコです。本当の色がわかりませんでした。子供ながらに悲しくて、隣の友だちに、色を忘れたふりをして、アレ、何色だったっけ?と言いながら、赤だよ!、と言われながら、言われるままの色にニャロメを塗りました。そんな家を恨みましたが、今思えば、周りにはマンガ雑誌もテレビも何も無い子もいたと思います。
さて、当時の風呂の話に戻しますが、今では入浴中にスイッチ一つで温度調節のみならず、湯量まで調節可能ですが、その頃の我が家では風呂の中からは温度の調節などもちろんできません。まず、最初に風呂の温度をチェックに風呂場へ行き、焚き口に廻って火をおこして薪を適当な長さに切って、このぐらいかな、という所まで燃やすのです。時々、浴槽のお湯の温度を確認しながら、また、薪を追加していくのです。時代劇なら、もうちょっと熱くしておくれ、と、薪をくべてくれる恋人か恋女房に一言かければ良い所ですが、全部セルフサービスでした。切なくて悲しい思い出ですが、その時の、パチパチと燃えている薪の明かりが、今も目に焼き付いています。
こんな生活は、ほとんど他人には話していませんでした。今は時間もかなりたったので、ここに書いています。
さて、朝の勉強の良いのは、テレビが当時は大体0時前後で終了だったので、見なくて済んだ事でした。でも、本当は違うんです。今の受験生は、ながら勉強するのか、また、ながら勉強という言葉が今もあるのかどうか、分かりませんが、僕は‘ながら勉強’していました。当時はまだ深夜ラジオ全盛時代でした。オールナイトニッポンは、結構聞きながら勉強していました。残念だったのは、当時雑誌にはしばしば、文化放送のセイヤング、という番組が取り上げられていましたが、愛知県では聞けなかったことです。周波数を合わせると微妙には入るのですが、楽しむほどには入りませんでした。何度もラジオに向かって周波数合わせをした事を思い出します。朝勉の悪い点は、夕方になると、ひどい眠気に襲われる事です。放課後学校から5~6kmの道のりを自転車で帰るのですが、眠りながら走ったと思しき日が何度もありました。幾つかの帰宅ルートがあったのですが、何処をどう通ったのか、全く記憶が無いのでした。たぶん結構危ない不審な自転車高校生だったと思います。
まあ、大学受験前は、そんな日々でした。つらかったと思います。だから今も、診察室などで受験生に会うとつい感情入ってしまいます。
つらければつらい程に、きっと自分の役に立つ日が来るし、良い思い出になるかと思います。受験生、みんな自分の目標に向かって頑張ってください。こんなこと言っては何ですが、僕は、自分があの時努力して、医者になるために仙台にやってきて、ここに住み着いたことにとても満足しています。努力の甲斐があったと、また助けてくれた人へ感謝を忘れてはいけないと思っています。また思うようにしています。今もつらい事はあります。でも、自分で選んだ道ですし、自分で撒いた種だと、納得するように努力しています。
この正月はそんなことを思って過ぎました。また、寒い冬が来るかと思うと、時々、仙台に来たのは間違いだったと、本当は心の奥でほんの少しだけ後悔もしています。
(普段、口数は多いのですが、なかなか文章にできず、気がついたら、1年ぶりの登場でした。今年はもう少しマメに更新したい?ですが。。。。。。???)
2010/01/03号 ≪第4ステージを終了…寅年男の話≫
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
2010年は寅年です。あー、ついに4順目終了か、年取ったって悲しくなります。
思えば、12年を一区切りとして考えると、人生、ナンなのだろう。考えてみました。
・第1ステージは、小学校終了まで。
・第2ステージは大学卒業まで。
・第3ステージは、医師になり、研修病院、大学病院、結婚、留学、市中病院への赴任。多忙の時期でした。
・そして今回終了する第4ステージでは、市中病院からクリニックの開業への変遷でした。
各ステージに表題をつければ、
・自我形成の第1ステージ、
・反逆と独立の第2ステージ、
・自己の人生の基礎の第3ステージ、
・人生の円熟と確立の第4ステージでしょうか。
まあ、人生正しく生きられたかどうかは分かりませんが、とりあえず、自分なりには努力してきたなあ、という気持ちはあります。
では、第5ステージは何ナノカ?これはまだ経験していないので分かりません。近年の感覚の中では、「老い」を感じます。また、新たな物事への情熱の衰退を感じます。きっと誰もがそうなのかも知れませんが、若い頃はどこか身体に苦痛があっても、それが死へ結びつく異常とは、ほとんどの人は思わないでしょう。でも最近では、例えばお腹が痛ければ、大腸がんかも知れないと思い、胸に違和感感じれば狭心症か?と思います。疲れが抜けづらくなり、冬の寒さがコタエマス。体力をつけようと少しジョギングすれば、膝(ひざ)痛です。最近これが老いなのかと感じます。
医師として働いていても、理解力、記憶力の減退、老眼の入った目、これらが日々身に沁みます。
医師としては、老いを実感として理解する事はとても大事と思います。自分が老いて初めて老いを理解し始めることができました。でも、そんなときには、若い頃の理解力充分な頭脳は遠いかなたです。本来、脳の若さと経験がうまくかみ合わされば最高なのでしょうが、若い頃には頭の回転は速くても机上の学問が主体で自信ばかりで、弱さや老いが本当には理解できていなかったように思います。でも老いてきたら今度は身体的な能力の低下(脳の回転不良、体調の不調等)です。
物事はうまく行かないものです。これからの12年、新たな物事に如何に挑戦し、如何に自分の老いを先に延ばしてゆくか、それを目標に、日々精進精進です。
ついでながら、この冬人生初めてブーツを買いました。これがまた、履くのと脱ぐのがメチャメチャ大変です。足がつりそうになりましたが、まあ、何事も挑戦と、我慢と努力のアラフィフの日々です。
2009/01/01号 ≪10年後?≫
2009年1月10日で、開業3周年になります。本年もよろしくお願い申し上げます。
今度もまた長く冬眠していました。正月がまたやって来たので、書こうかな?と思います。(前回の記事掲載から1年も経っていました。多忙を理由に随分とサボっていたものです。ご容赦ください。)
2008年は色々な事件や出来事がありました。世界的な経済危機も大きな問題です。思えば1962年生まれの僕にはこれが3度目の経済危機だと記憶されます。オイルショック、バブルの崩壊がこれまでのものでした。今度は、でも少し大きいようには思います。しかし個人のみならず有名な大企業も危機だなんてビックリします。前回のバブル崩壊時には保険会社も崩壊し、僕自身少なからず痛手を受けたことも思い出されます。バブルの前には保険会社がつぶれるなんて誰も予想していませんでした。(本当は保険会社は知っていたのかも知れません。途中からわからないように利回りを下げた契約に変えさせていたのを知ったのは保険会社崩壊後しばらくしてからでした)。だから失敗は誰の責任か?と考えても多分誰の責任でもないのでしょう。なぜなら、10年先のことなんて誰にも予測はつかないものでしょうから。過去の事を少し思い返してみます。
中学卒業の時には、きっと5年後に大学に行っているだろうと漠然と思っていました。でも10年後に医者になっているとは思ってもいませんでした。高校1年までは企業に勤める自分の姿しか想像できませんでした。大学卒業後、医師として卒後の研修を終えて大学病院で大学の医師兼研究者をしていたころ、最大の人生の目標は、大学の研究者(学者)として功を成すこと、だったかも知れません。でもそんな考えはある時、急に崩れました。本当に突然に、目からうろこが落ちるように消えて行ったのです。自分が研究者に向いてないと感じた時、それが大学との決別の時でした。(多分能力の限界だったのでしょう。)向かない道にしがみつかずに、市中病院で頑張ろうと心に決めたのでした。その後の市中病院での生活は当初意欲に満ちた活気のあるものでした。でも、やはりある時、急に終わりは来たのでした。これはもう、自分にもコントロール出来ないものです。ある時それまでの心に写る景色がかわってしまったのでした。開業をする2年前まで私は全く開業の計画を持っていませんでした。それがある時、自分のクリニックを作ると心に決めて、気がついたら既に3年前の開業の初日でした。その後の事は今のクリニックとともにあることは現状を見ていただければおわかりいただけるのかなと思います。
自分の中では、予想外の激変をくぐりぬけてきたのに、そして数多くの挫折、情熱の喪失とそれまでの人生に対する否定、大きな決断を乗り越えてきたのに・・・。ところが、今までの自分の歴史を表してみれば(傍から見れば)誰もが疑うことの無い「計画的な人生」に見えるのではないか?と気づきます。これまでの自分史を振り返れば、予想外の激変なんか微塵も感じない、極めて計画的にみえる人生のようです。(つまり、勉強して大学に入り、医師となって大学病院に勤務。ある時、大学での研究を辞し市中病院で一線の臨床医として活躍した後、自分のクリニックを開業する。さもありそうな一医師として普通の人生設計・・・。)なんて自分は普通な人なのか、といまさらながら情けなく思ったりもします。
とりとめもなく書いてしまって恥ずかしいのですが、今言えることは、自分が辞した研究者の道、勤務医の道(これはもう本当に厳しい時代です)で生きている医師達を、今はただ心から尊敬して見られるようになったということです。そう思えるようになったと言う事は、きっと自分の経験が無駄ではなかったと考える理由になるような気がします。他人のことを非難することや、もっともっとと要求をすることは簡単です。なぜならば自分が経験していないから、他人の苦労が分からないからでしょう。本当の苦労はそれを経験した人にしか多分分からないように今は思います。
10年後、それは、きっと誰にも分からないのでしょう。だから結局今頑張るしかないのです。今年はこんな気持ちでやってみよう。4年目を迎えるクリニックで、そんな気持ちで今を大切に生きられたら、と思う元旦です。
2008/01/25号 ≪1月≫
また久しぶりになってしまいました。
先日2008年1月10日で開院2周年となりました。この2年の間、手探りでやってきた部分も色々あり、診療のいたらなかった点もあるかと思います。今後も少しずつ努力を重ねて何とか満足いただける、そして自分の理想と思う医療に近づければ、と思います。
さて、この時期になるといつも耳にするのは、阪神淡路大震災の報道でしょうか。13年前の大災害のニュースが、そして、復興した街の映像が流されます。本当に関係者の方たちにはかける言葉も見つかりません。
僕にとって震災は、実はアメリカ留学からの帰国と重なったため、鮮烈な記憶として残っています。米国から名古屋空港へ帰国したのが、確か1995年1月15日か16日でした。実家の関係で愛知県に居たのですが、17日の朝比較的強い揺れがあったこと、その直後に起きてTVをつけるとモーモーと煙が立ち、高速道路が崩れていたこと、地震の発生場所が約200kmはなれた関西だったこと、そして次第に明らかになる被害状況、これらが今もはっきりとよみがえります。
震災と復興の13年は、実は僕にとっても、激動、変動の13年でした。米国からの帰国時には僕が今こうして古城で開業医として仕事をしている姿はまったく想像も出来ませんでした。当時僕は、まだ若く、(多くの医師がそうであるかどうかはわかりませんが)まず大学病院の医師として研究や第一線の臨床をすること、それが当然の志でした。なぜそう思っていたのかよく分からないのですが、その頃の僕はそんな医師が最も偉いと信じて疑っていませんでした。人生における計画は全く無く、まあ、簡単に言うと行き当たりばったりでした。その後、古川市立病院でいわゆる日常の医療を経験し、次第に気持ちが変わっていきました。そして、大学を辞めました。大学病院での医師の価値が自分の中ですっかり下がってしまっていたのです。(勿論大学で第一線の研究を続けている医師たちを否定していた訳ではありません。)
今思うと、多分人は自分の経験したものしか価値が分からないのでしょう。当時市中病院の医師としての経験も少なく、もちろん開業医の経験もなかった訳ですから、経験からの評価は出来ませんでした。ですからしばしば思い込みで決断するしかありませんでした。多くの人(医師)は、その時の環境(自分の居る医療現場:それぞれの道つまり大学だったり、役所、市中病院、開業医だったり等)を良く言いますが、本当は何が正解なのかは分からないように思います。
その後の道のりはご存知のとおりですが、今、開業3年目を迎えるにあたって、ひとつ言えるのは、それぞれの道でそれぞれの重要な役割があるということです。多くの人達のそれぞれの立場からの役割を理解し、その中で自分もやっている、そんな風に考えながらやって行きたい、ということです。これは医師や医療のみの事ではなく、人生全般、人としての部分の全てを含めてです。
若い人達には、一言。人生には決断が必要なときがいつか来るのでそんな時に少しでも後悔しない決断が出来るように常に研鑽をつんで欲しい、思っています。
先日、『千の風になって』を再度TVで聞く機会がありました。1年前にはあまり素敵と思えなかったこの歌が、何故か今回はとても深く心に響きました。この詩が多くの人達の心をとらえるのがすごく自然なことに思われました。結構1年で感覚って変わるものなんだなと、自分でも驚きました。
何とか少しでも柔軟に物事を受け入れるようになること、それが今年の目標です。