2011/07/11号 ≪震災にて≫
今回の震災の事にようやく少し触れてみようかなという気になりました。
震災から4ヶ月が過ぎ、いまだに、結構、涙もろくなっている自分に驚くのですが、幸い医院に大きな被害も無かったため、多くの患者様の、無事でした、大丈夫ですよ、という笑顔に会うたびに、心が救われ、力を得て、ここまでやってきました。日本中の、そして世界中の人達から多くの支援をいただき、本当にありがたく、一人のこの地域に暮らすものとして、感謝しています。
僕はすっかり立ち直ったからもう元気です、と言いたいのですが、本当はまだ乗り越えていません。少し元気がでたかな、と自分で思っても、余震があったり、テレビでの被災地報道をみたり、沿岸の子供たちの歌う歌を聴いたり、原発、放射能汚染のニュースが流れたり、津波の映像を見るたびに、いまだに悲しい思いがこみ上げてきます。僕自身は、個人に限って言えばそんなに大きな被害があったわけではないのに、どうしても、昔の自分には戻れないのです。その事の本当の理由を理論的に理解しようとするのですが、まだ良く自分でも理解できていません。
PTSDという、大きな苦痛を味わった後のストレス障害という言葉を、これまでいろいろな場面で聞いては来たのですが、今回恥ずかしながらようやく少し理解できたような気がします。これまでは、残念ながら本当には理解できていなかったと思います。かつて阪神大震災を経験した関西の人達が今回多く支援に来ていただいた事を耳にするたびに、当時、彼らの心の衝撃を理解してあげられなかった事に、遅ればせながら申し訳なく思ったりします。自分はどうなのか?、PTSDなのかと考えてみましたが、なかなか判断に迷います。原発再稼働のニュースを聞いても、結局経験しないと多くの人は理解出来ない事があるのかな?と自分を慰めています。
そんな事を思いながら先日テレビを見ていたら、七夕祭りのニュースが流れていました。
そういえば、長く七夕飾りを見にも行かないでいた自分に気付きました。七夕は飾りを見にゆくものと思っていたのですが、本来、古来からお祭りというのは悲しい時、辛い時に人々を救う大事なものだったのかな?、そして飾りの一つ一つは一人ひとりそれを作った人の人生を映している物ではないか?と、今年初めてふと思ったのです。今回の震災とそれに続く原発事故は、政府、政治家の問題ではあるかも知れませんが、本質は重要な事を他人任せにしてきた自分を含めた世代全体の失敗だったのではないのでしょうか?私達の世代は、常に右肩上がりで、日々人生が豊かになり、権利の主張が可能になり、問題が起これば、国など大きな物の責任を問えば済んできたのでした。そんな一見幸せな世界を享受してきた自分にも責任がある事を反省させられました。平和ボケの頭には、祭りの意味さえもわからなかったのだと思います。
仙台にきて32回目の七夕まつりがそこまで来ています。今年の飾りには多くの人の人生、助かった方、そして無念にも亡くなられた方、今復興に頑張っている方、まだ打ちひしがれている方、皆の思いが乗っている様な気がします。久しぶりに七夕祭りを見に行ってみようかな、と今思っています。多くの人が織りなす人ごみの風景、なんて素敵なんでしょう。震災間もないころの、誰もいない明かりも無いあの蒼い仙台からやっとここまで来たんだな、と幸せ探しに出掛けて来ようと思います。今年は例年以上に皆で人ごみ作りませんか?。だって、我々仙台人はまた新たな幸せな夏をこの地できっと見つけられるのですから。
なぜ悲しいのかを考えるときに、いくつも理由は挙げられるのですが、一つの大きなきっかけは、2回目の4月の大きな余震でした。あの頃は何となく立ち上がって行けそうな気はしていたのですが、そこへ再び大きな揺れ…正直へこみました。心がくじけそうになりました。やはり、いつ終わるかもわからない苦痛というのは、辛いものである、また、自分の努力では解決できない障害に当たった時というのは、辛いものだ、と今更ながら思います。我々は、今以上に何か悪い事が起こらない、と思えたら、前向きになれるんだ、と思います。ですから、今切に願うのはこれ以上の余震が無い事です。でも、これは自然現象なので避けられないのですが。
そして、何といっても原発です。早く収束してほしいと祈るばかりです。福島県で、あの牛たちが野原を群れをなして移動する姿は哀しすぎます。多くの土地で、いろんな人が土地を離れるかどうか、子供だけでも避難させるべきかどうか、一家で移住すべきか、そして、その際に、生活の保障が得られるのかで、悩んでおられます。宮城県人としては、勿論他人事ではありません。自分の土地を捨てなければならないというのはきっとどうしようもなく辛い事だろうと、今、推測しています。そんな日が来なければ良いのですが。自分がもし仙台を離れるとしたら、どんなに悲しい事でしょう。この街は今や僕にとってふるさとです。去りがたき場所なのです。
2010/01/03号 ≪新型インフルエンザの2009年≫
変動の2009年も終わり、いよいよ2010年が始まりました。
2009年はいろいろな事があった年のように思います。国政にも、仙台の市政にも大きな変化がありました。スポーツ界では、何と言ってもベガルタ仙台のJI再昇格と天皇杯ベスト4進出という大ニュースがありました。医療の世界では、やはり新型インフルエンザでしょう。
思えば2009年のクリニックでは、あけても暮れても、新型インフルエンザでした。
症状がわずかにもかかわらず、インフルエンザかどうかが心配で多くの患者様が受診されました。職場ではインフルエンザの可能性があれば出勤停止の指示が出て、医療機関での確認を求める人が、とても多く受診されました。
院内では、個室対応など余儀なくされ、診療にも時間がかかり、待ち時間も増加して多くの患者様に不快な思いをさせてしまいました。マスク着用での受診を勧め、多くの患者様に協力いただきました。
さらには新型インフルエンザワクチン接種一つにしても、(ワクチンの入荷がお上の指示待ちでぎりぎりまで予定が立てられず)入荷したら電話連絡という形をとらざるをえず、患者様にも不安や心配をおかけしました。
これらの対応等で当院スタッフにも、かなりの負担となりました。この状況がいつまで続くのか?と思うと、気持ちも重くなります。
さて、新型インフルエンザがどの程度怖いかは、まだ本当の所は分からないといわれています。過去の経験から推定するに、今後さらに広がる可能性が残るとの事です。
今回のインフルエンザのことを経験するにつけ、問題点を考えてみました。
マスコミや政府関係機関はしばしば新型インフルエンザの情報提供をして来ましたが、以下の点でもう少し改善があれば、と思います。
1.一つは、今回のインフルエンザを理解する為には、これまでの季節性インフルエンザの死亡例や重症化例と比較してどの程度の物かと言うことをもう少し世の中に理解いただくことが必要ではないか、ということです。これまでのインフルエンザでも死亡例は見られているはずで、そのこととの比較で初めて、現状は理解されるのではないでしょうか?勿論、情報提供が、過度の安心感、または不安感をもたらす危険を説明した上での事です。
2.もう一つは、数年前あれほど怖がられたタミフルが、急に特効薬としてもてはやされる様になったことです。危険行動との因果関係はまだ否定されたわけではなく、今も、飛び降り事故はあるようですが、この点についてはあまり報道はされていない様になったことは問題と思えます。これでは、一般の患者様の中では、インフルエンザと異常行動について、そしてそこにタミフルの関与があるのかどうなのか、の問題は忘れられてしまうように思います。
今後、このような情報提供が、どのような形になって行くのか、興味深いところです。
今回の新型インフルエンザは、何とか終息しそうな気配も示していますが、どうでしょう。自然界の摂理として、少なくなってきたもの(生物)は、なんとか再度増やそうと努力をします。したがって、ウイルス感染の広がりが再度盛り返したり、または、あらたな形で再発生することは、きっとあるように思います。それが何ヶ月後なのか、何年後なのかは分かりませんが。
2006/05/27号 ≪大学生活のはじまり≫ ~僕の好きな場所~ 川内キャンパス
今の時期は、若い人達も進路のことで間違った選択で失敗したと思ったり五月病になったりする頃かと思います。僕が思うのは、何を選んでもつらいことはあります。でもやめてしまう前に、入学や入社が決まったときの喜びの日のことを一度思い出してみては、と思います。前向きなやり直しは否定しません。でも、道を変えればやはりつらいことはあります。なんて思っています。そんなこと考えながら受験のときのことを書いてみます。
昭和55年3月3日、4日の確か2日間、大学入試が行われました。僕は駅前の朝市の中のCホテルに宿泊しました。どうせだったら朝市を見に行けばよいのですが、そんな余裕など全くありませんでした。
前日、バスで入試会場の下見に行きました。いまだに僕はバスに乗るたびに、少し緊張するのですが(これって僕だけ(^^ゞでしょうか?)、その時のバスも緊張…(+o+)…でした。大橋を渡り川内の方へバスが向かう時、「ああここが広瀬川か」、「ここが青葉城の登り口か」、と心の中で一々確認していました。そんな中たどり着いた東北大の教養部のキャンパスで記憶に残るのは、まず、学生運動の大きな文字、汚い誇りをかぶった廃墟の一歩手前のような建物、そしてサークル棟の脇に残っていた雪でした。この中で、一番心に残ったのは、やはり雪でした。(雪の無い愛知県からやってきて。愛知県では雪が舞うと授業が中断しました、でも3分か5分で止んでしまうのです。)入試会場のキャンパスで見たサークル棟脇の雪の光景はいまだに仙台で雪が溶けかけるたびに心によみがえります。
その日下見の帰りには街並を少し歩いてみました。広瀬川にかかる大橋の上から下を覗いて流れをみていると青葉城恋唄が聴こえて来るようでした(感傷にひたるヤマモト少年・・・(-.-)・・・)。今はそんな風に何気ない景色を眺めることもすっかり減ってしまいました。こんな風に書きなぐっていると、もう一度そんな心の余裕を持たなければと思ったりします。
そして試験の前夜、自信?と不安??でたぶん3時間くらいしか…(__).。oO眠れませんでした。試験の内容はあまり覚えていないのですが、周りの受験生も結構頭の悪そうな顔(~u~)をしていたことと、やけにトイレに通う回数の多い受験生、(きっとびびっていたか、悪いことしてたかどっちかだと思うのですが)、そして、わずかに数学の記憶が残るのみです。覚えているのは、確率の問題を、決して頭の良いと言われる人は使わないような、とても泥臭い方法で解いたこと。もうひとつは、とても複雑な答えが出て、見直す時間もなく不安のうちに試験が終わったことでした。終わった時に「もうここへは戻ってこれないかな??」そんな寂しい予感が心をよぎりました。一応合格電報“青葉もゆる”または不合格電報“みちのく雪深し”を500円でお願いし試験会場をあとにしました。『もしかして受かったかな?』という期待感に変わったのは、翌朝の河北新報をみた時でした。新聞に掲載された数学の解答がやはり複雑で、「ああ、あの問題は出来たのかな?」!(^^)!bと希望がみえてきました。
そのあとは地元に戻り、遠ければどこでも良いかの様に、もうひとつの大学受験のために九州へ旅行しました。東北大の合格発表は3月17日、出かけて遊んでいた僕が帰宅すると、今はなき祖母が電報を開かずに、手に持って僕を待っていました。“青葉もゆる”の文字を見たとき(^_^)b!!のことは、今も思い起こすと心が熱くなります。
勝手な旧い話に付き合ってくれて有難う。診療の時も、時々若い人達にクラブ何やってるの?なんて余計なことを言ったりしますが、ウザイな、と思わないで教えてね。というのが僕からのお願いかな?
それではまた暇なときに付き合ってください。
(@^^)/~~~~~~~~~
2006/04/14号 ≪僕が仙台へ来た日≫ ~僕の好きな場所~ 広瀬川、仙台駅
それは昭和54年3月1日だったと思います。愛知県豊橋市ですごしていた僕は、高校2年生、17歳の時に仙台へ来る道を選ぼうと決めました。何故か?それは多分当時流行っていた青葉城恋唄が所以かも。どうしてか?それは当時恋に破れ何もかも悲しくて、愛知の景色が自分を疎外していると感じた時、青葉城恋唄に流れる広瀬川のせせらぎを見てみたいと、そんな純粋(単純(+o+)…?)な動機でした。
人間だれしも悲しくてつらくて世の中バカヤローって思うときがありますよね。そんな純粋な心で僕は入試前々日、豊橋駅から新幹線で2時間余り、その後、東京駅の山手線4番線乗りばから上野へ行き、上野から仙台まで4時間15分のひばり号で仙台駅へやってきました。初めて仙台駅に降り立った時は、「空気が爽やか。。。(本当は冷たいだけだったのかもしれませんが)」、「駅がでかいなあ。。。」そんな感覚でした。もうひとつ思い出すのは、今ではもう無いかもしれませんが、東北大学応援団が駅のペデストリアンデッキで‘フレー!、フレー!山本!’、をしてくれたことです。それはそれは汚い応援団でした。この日のことは今も心に残っています。僕が初めて仙台へ来た日の緊張と胸のたかなりは今の自分の原点だと思います。
それから27年あまり、この土地で、人生を作ってきました。医院まで開業してしまった今、きっと、もう違う場所には行かないのかな?と感じています。
仙台の皆様、もし、仙台バカヤローって思ったら思い切ってそこを離れて、違うところへ行ってみては如何かな?特に若い人達にそう伝えたい。と思う自分は歳をとったんだなあ、とまた感慨にふける自分が悲しいことこの上無きかな、いと哀し。(・_・、)・・・、、、
人生は分からないもので、違う土地を選んでいたら、全く違う人生があったと思うと、少し奇妙な気がします。この土地で出会った友人、恩師、そして多くの患者様、皆が、違う土地に行っていれば会えなかった人達なんだなと思うと、本当に出会いって不思議だなと感じます。
というわけでこんな風に27年前、僕の仙台人生は始まりました。もしよろしければ、また続きを読んでください。受験生の皆様など若い人達にも読んでいただければと思います。次回は受験前夜の緊張(“o”)と試験当日(@o@)/#$%&#$%&???<<>>!の話を書きたいと思います。
つ・づ・く・・・(~o~)/~~~